「おい、はよせーや。今日中に出すんやろ」
「そうやけど…ちょっと待ってや…」
目の前にある、1枚の紙。
これを出したら、きのうまでとは違うあたし…っていうのは、大げさなんやろか。
実際、ほんまにうっすいぺらっぺらの紙で…。
もらうときはちょっと照れくさかったし、失敗したとき用に2枚もらってきたんやけど。
平次はなんの躊躇もなく、すらすらっと書きよった。
名前も住所も、生年月日も。
あたしは名前ひとつ書くんにも手が震えて、
字が曲がってしまったらどないしようかと思ったらまた震えて、
やっとの思いで書いたんやで。
自分の名前書くんにこんな緊張したんは、初めてや。
書いたら書いたで、今度は出すんに戸惑ってしまう…。
平次はさっきから、はよせーはよせーしか言わへん。
わかってんの?
これ出したら、もう簡単には後戻りできないんやで?
あたしは長年付き合ってきた「遠山」ともお別れや…。
別にそれが名残惜しいわけやないけど。
ずっと、夢見てきたことやから、
あんたの名字に変わる日を。
「あんたはええよな…。別になにも変わらんやん。名字もそのままやし…」
つい出てしまった小さな独り言に、平次はすぐに反応した。
「あ?なにも変わらん?
お前アホか。男のほうがな、色々覚悟がいるねんで。
こっから先の人生、自分ひとりやないから責任重大やわ」
「そ、そうやな…」
わかってるよ、そんなこと…。
けどあんた、あまりに簡単に、書くから、名前。
印鑑もなんのためらいもなく押して。
ほんまにええん?
後悔せん?
あたしで、ええんか? 平次。
「引き返すんなら、今やで」
「…え?」
口に出したのは、平次のほう。
「もっといい男なん、この世にいっぱいいてるしなぁ」
…なに、それ。
あたしがもたもたしてるから、そんな意地悪言いだしたん?
アホやないの、あんたほんまに…。
「どこにおるん?もっといい男って…。
今まで見つからんかったのに、これからどうやって見つけるん?
あたしには平次しかおらんって、あんたが一番わかってるはずやん!!」
つい、言葉に力が入ってしまった。
顔も赤くなって、恥ずかしいわ……。
「せやろせやろ」
平次はそう言うて、笑った。
いつもみたいに憎たらしい顔で。
…やられたわ…。
「ほな、出しに行こか。今から」
「…うん…。」
結局、2枚もらってきた紙は、1枚は必要なかった。
少し震えた手で書いた文字もそれはそれでいい気がしたん。
なぁ平次、
それ出したらな、きのうとは違う二人やで。
いや…、きっと、あたしらは
今までとなんも、変わらんのかもしれへんね。
「にしても、へったくそな字やな~」
そう言うてバカにする、平次の笑顔がいつも以上に優しいように思う。
これからも、末永く、よろしく
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